新スタジオ/敷地と歩道隔てず、地域に根差す
初代写真館があった高松市御坊町は由緒ある寺町だが、飲食店の多い繁華街に変化するにつれ、写真館のイメージと合わなくなっていた。
目を付けたのが塩屋町の国道角。当時近くの琴電瓦町駅周辺には駅前整備計画があった。一目で気に入り、数社の不動産業者に頼んだものの反応が鈍く、らちが明かない。ふと中学の同級生の父親が、地主の大手企業に力があるのを思い出し、すぐ電話をすると、本気かと確認された。明くる日、その企業四国支社で、「本社に稟議を回せ、俺が責任を取る」との一声。1年以上進まなかった購入交渉が、たった1週間で決まった。
■
建築予定の1986年は私の厄年。周囲は「避けるべき」と反対。どん底からスタートすれば、後は良くなるだけと割り切り、一気に突き進んだ。
新スタジオは私の夢の具現化。コンセプトは「10代~30代の人達に、いいな、行ってみたいなと思わせる建物。40代以上の人は切り捨ててほしい」。設計には全面的に関わった。何せ小学生の時から平面図を書いていたという、建築好き。設計士も煙たかったと思う。
当時の写真館は重厚な外装。窓の無いスタジオの背景布の前で撮影というのが一般的だった。私は機能性、明るい自然光を生かした撮影、建物の内外至る所が撮影の背景になるよう配慮した。そしてデザインも含めてハイセンスな、提案型のスタジオを目指した。
外観はコンクリートの打ち放しと、銀粒子的風合いの特注タイルで、写真の原点であるモノクロ写真を表現。大きな窓や吹き抜けを設けて、内部は太陽の光が注ぎ込む開放的な雰囲気。1階ロビーから階段、中庭(パティオ)、三角屋根のアトリエなど、建物内外のあらゆる場所で撮影できる空間とした。設計期間3カ月という異例の短さ。就寝はいつも27時を回っていた。
設計の三木雅愛氏は昔からのテニス仲間。意見をぶつけ合って設計を仕上げた。清水建設の親身な姿勢には頭が下がる。現場監督の小早川芳信氏は若手の有望株だった。彼は全ての要望に対し、「分かりました。何とかします」と応えてくれた。追加費用を微々たるものに抑え、新しいものへの挑戦を共にやり遂げてくれた。
完成2カ月後。出張から帰る車の中、青空にアドバルーンが見え、近づくとスタジオの上だった。「先生、40歳の誕生日おめでとう!」の文字。唯一人30代だった私へのテニス仲間たちからの粋な計らいだった。
■
見学希望も相次いだ。毎日となると仕事にならず、なかなか大変。ある時は松山で集合、見学者50人を乗せたバスでガイド風に、
スタジオまでの4時間立ちっぱなしの講演もした。しかし全国に先駆けたスタジオを築けたという満足もあった。同業者の評価はうれしいが、私が重視したのは地域に根差すこと。写真館の敷地と歩道の境をあえてあいまいにし、ショートカットで玄関前を道路として近道できるようにした。歩道に面した角に設計の最初に頼んだコンクリート製のベンチがある。ここで、孫連れのお年寄りがひと息ついたり、小中高校生が腰を下ろして談笑する憩いの場になり、街の風物詩になっている。
(福家スタジオ取締役会長)