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HISTORY

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2代目/大みそかに「元旦からは社長」

1968年に帰郷し、福家写真館での勤務についた。父は大阪の老舗写真館で修行を積み、帰郷後召集された。戦後満州から復員、高松市御坊町の商店街横に写真館を開業した。商売人というよりも職人肌。苦労をしながら、高松でも有数の写真館にした。しかし私が仕事を始めた頃にはいろいろと歪みが出て来ていた。

その一つが、スタジオの活性化。ホテルや結婚式場のブライダル撮影は売上げも大きく、一軒で一日20組以上という所もあり、スタッフ総出で走り回った。そのため、本店スタジオに手が回らず、撮影客を断ることが多かった。ブライダル撮影は大切だが、わざわざ足を運び、直接お金を払ってくれるお客さまの、期待を裏切るのは本末転倒ではないかと疑問を持ち、父にいくら忙しい日でも、スタジオをしっかり守ってもらった。

スタジオ活性化の効果は現れ始め、3年後にはスタジオの撮影客数が倍になり、リピーターも増えた。順調に仕事もすすむ一方、30代になる頃から私がいろいろ提案するにつれて父から煙たがられるようになり、積極的に言うほどかたくなになった。いくら言っても聞いてくれなくなった段階に来て、妻にはしばらく日常の仕事をこなすだけにすると宣言。父が始めた写真館、これ以上やっても衝突するだけ。弟の方が父とうまくやっている。ずいぶん悩んだ末、弟に後継者になるよう伝え、会社を出た。33歳の頃だった。

■ 写真でない全く新しい分野に進むつもりで、「さあ、これから何をしようか」と希望に胸膨らんだが、結局、弟から「自分では無理、戻ってくれ」と頼まれ、復帰するのだが、そこから自分なりの経営方法を明快にした。

1981年、35歳の大みそか、妻道子と両親の前に呼ばれ「元旦からは社長としてやりなさい」と母に告げられた。普段無口だが決断力のある母は「あなたは前に出たらダメです」と父に言い、「これからは2人に全てを任せます」と。驚く妻に、母が帳簿を差し出した。あまりに唐突に、2代目を継ぐことが決まった。翌1982年1月元旦、希望と不安の入り交じる緊張の新年が始まった。

■  新生福家スタジオは、心機一転社長のトイレ掃除から始めた。今までの仕事のボリュームがある中、若手1人を残し新たに雇用した男女3人に、5年計画の目標二つを公言した。「5年後に売上高を2倍」にする。料金システムの変更、取引先拡大など、計画を実行に移す。人材育成も急務だったが、先代からの社員を継承していたら、スムーズにいくとは思えず、判断として正解だった。新人たちを率い、毎日薄氷を踏む思いで頑張り続け、5年目になんとか売上げ2倍を達成。そして公言したもう一つの目標「自分の城(スタジオ)を作る」目標もより具体化していった。もう後には引けない。
(福家スタジオ取締役会長)

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