ヒーロー気分/遠足や修学旅行でカメラマン
父孝、母美代子が高松市御坊町に福家写真館を構えた1946年9月10日に私は誕生した。父は鹿児島生まれ、幼時に養子に貰われ高松市香西の福家家にきた。母は西尾家の長女で、大阪から疎開し、坂出市林田町に住んだ。従軍中に父が、結婚の話を了承し帰ると西尾家の養子になっていたそうだ。今も私たちは戸籍上では西尾、ビジネスネームとして福家を名乗っている。写真館は木造2階建て。2階の応接室はガス暖炉やアーチ窓がお洒落な、お気に入りの場所だった。当時、カメラはまだ家庭には普及しておらず珍しい頃。小学校の遠足や修学旅行の機会にだけ、父が渡してくれた。全てがマニュアル操作の時代、使い方を事前に教わった。当日、レンズを向けて撮影すると、皆が集まって来る。シャイな私にとって、こんな時だけヒーロー気分だった。
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戦後の活気に溢れ、明るい未来に進んでいく時代だった。子供の増加に合わせて学校も整備、新塩屋町小学校から新設築地小学校に転校、1959年4月8日に新設城内中学入学。10日が今の天皇のご成婚、国民が熱狂した。意欲的な先生が多く、中でも卒業までの2年間、十河春繁先生には厳しい指導にも愛情を感じ、先生の亡くなるまでお付き合い頂いた。
国語が苦手だった。特に作文はすぐに発想が固まる。そんな姿を見かねたのか、国語の香川冨久美先生が放課後個人授業をしてくれた。数カ月の間、ほぼ毎日。いかに国語が面白いか、文章の世界の奥深さを伝えてくれた。それから本も読むようになり、小田実の「なんでも見てやろう」で、世界を貧乏旅行する勇気や行動力、星新一のショートショートには軽妙なセンスを感じた。今、文章を苦にしなくなったのは、この香川先生の教えのおかげと思っている。
高松高校に進み、部活動は美術部に入った。学校自体がそうだが、特に自主性を重んじ、個性を大切にする部の雰囲気が楽しかった。
部長を務め、初めて組織を運営する経験をした。重要な文化祭で、作品展示用の暗幕がなくて困った。校長に購入を願い直談判すると、「善処する」という反応。大人の官僚的返答にダメだと思った。他校だが、周りから信望厚いと聞いていた高松一高校長の住所を電話帳で調べ、夜に自宅を訪ねて貸し出しを願い出た。「分かりました。担当に言っておきます」。翌朝、一高に行くと約束通り用意してくれていた。感謝の気持ちを抱きながら、部員数人で学校まで重いリヤカーを引っ張って帰った。困難な状況を分析、解決策を導き出す良い勉強になった。
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高校3年まで志望の大学はあったが、将来像はまだ定まっていなかった。写真館継承を具体的に考えたことすらない。『物事を自分なりに判断していける』と父からも信頼してくれてはいたようだ。その夏、写真館業界のご意見番、また若手リーダーのお2人が写真館に来られ、3人でしばらく話をした。写真館の歴史的役割や、喜ばれて成り立つ良い職業だなどの言葉を熱心に掛けられた。父が苦労して始めた写真館。明確な目標がないなら、継ぐのもいいかなと思うようになり、父の勧める東京写真短期大学に行くことを考える。2ヶ月後に東京オリンピック開催の迫る暑い夏だった。
(福家スタジオ取締役会長)