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HISTORY

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会長職/組織はできるだけシンプルに

40歳の時、高松写真師会会長に推されたのが始まりだった。地元の会とは少し距離を置いていた面があり、役職に就いたこともなかったのに、なぜ? いきなりの要請に戸惑ったが、これも運命と引き受けた。
市単位の小組織ならではの企画を考え、ワークショップを開いた。例えばアメリカ在住の旧知の写真家に、最新のレタッチ(画像の修整・加工)技術の実技を学ぶなどして会員の技量の向上を図り、1994年まで8年間、会長を務めた。妻に「ようやく終わった」と伝えると、数日後、県営業写真家協会総会で副会長に指名された。
その後、県会長も10年間務め、四国写真家協会香川大会と日本写真文化協会総会の合同開催を依頼され、実行委員長をする事にもなった。重要な節目でなぜか、いろいろな会のトップを任され、不思議な縁を感じる。

■  「組織はできるだけシンプルに」を信条としてきた。写真館に関係する全国組織は、一般社団法人・日本写真文化協会と、協同組合・日本写真館協会が二大組織。これに、アメリカで百数十年の歴史と3万人近くの会員を有する「プロフェッショナル フォトグラファーズ オブ アメリカ(PPA)」の日本支部的役割、日本プロ写真家協会(英語名•PPJ)があった。
  2005年にPPJの会長に就き、初の学生参加型の定期大会を企画した。アメリカの有名写真家から屋外での撮影指導が受けられる貴重な機会。会員に限定せず、将来の宝になる人材にも門戸を広げようと大阪の日本写真映像専門学校から全面的な協力を取り付けた。当日、無料で招待した同校の学生がモデル役や助手を快く引き受け、一流の技を学ぶ輝く目に成功を確信した。学生のその後の活躍もうれしく、組織も大きな収穫だった。

一方、2007年、PPJの日本写真館協会への合流を決めた。業界の先行きを考え、会長職を辞してでも合流すべきと思い、周囲からは「よく決断したな」と評価もされた。その際、日本を代表する英語名PPJも日本写真館協会に譲った。

二大組織も現在、総会の日程調整、合同で役員会を開催と、再編に向けた動きが出ている。難題もあるだろうが、必要な方向性と信じている。

■ 42歳で入会した職業奉仕団体の高松ロータリークラブでは2012年、設立75周年を会長として迎えた。当クラブは25年ごとの記念大会を重視、意義深い大会になった。
記念イベントは、難病と闘う子どもの夢を支援する、世界的ボランティア団体日本支部「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」(本部・東京)の活動を紹介、講師として大野寿子氏(当時事務局長)を迎えた。「お父さんと結婚したい」難病の女の子が豪華なホテルで挙式、「旅客機のパイロットになりたい」男の子の夢をかなえるなど、多くの協力者の応援で実現。素晴らしい内容に、隣席の来賓大西高松市長もハンカチを離せず感動されていた。

私は本来引っ込み思案、人前に出るのが苦手だったが、私を信じてくれる人がいる以上、「はい、喜んで」と前向きに捉えた。結果、人のつながりも広がり、さまざまな経験ができ、多くのものが得られ、財産となっている。
(福家スタジオ取締役会長)

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