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HISTORY

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フィルム工場に乗り込み/ユーザー目線の改良を直訴

戦後の復興から1964年開催の東京五輪にかけ、日本は国民が一体となり五輪を成功させようと、熱気に包まれていた。東海道新幹線、首都高速道路などが一気に整備され、皆貧乏だけど、夢に向かって突き進んだ時代。日本の技術を世界に見せつけようとするパワー、エネルギーに満ちていた。

戦時中、技術進歩が止まっていた写真館業界でも、見識のある経営者らが印画紙等のレベルを欧米に追いつけ、追い越せと意気込み、全国の写真館から技術力、経営力を持つ50人を選び、1960年に「印画紙研究会」を発足させた。メーカーや商社を巻き込み、写真館業界と産業界がコラボレーションする画期的な取り組み。私の写真研究の原点ともなっている。

■ 会は2月と9月の年2回、静岡県熱海市で開かれた。熱海と聞けば温泉を思い浮かべるかも知れないが、今でいう東京ビッグサイトなどのような最先端の情報発信の場。印画紙、フィルム、レンズ、ストロボなど、メーカーに要望を伝え、会員がテストをし、よりよいものを目指した。会は毎回熱気に包まれ、侃々諤々(かんかんがくがく)意見が飛び交い、けんかが始まるような真剣味があった。私は学生時代に1度見学、その熱気に興奮した。高松へ帰ってからも毎回欠かさず出席し、すぐ実践したものだ。

これまでメーカーが「使いやすいよう改良した」と言っても、不便で、振り回されることがよくあった。例えば、フィルムの感度や色のバランスを変更されるたび、私たち撮影者側はライト、背景、色合いの調整方法など全てを一から変えないといけない。新製品が出るたび、使う側にとって問題続出だった。いくら言葉で伝えてもらちが明かない。会員数人でフィルム会社の工場に乗り込んだ。

工場には製造現場の責任者から技術者、フィルムメーカーの幹部が集まっていた。私たちは写真館で普段撮影している作品を彼らに見せた。すると、「近頃の写真館はこんな写真を撮っているのですか」との返答に、あきれた。どの世界でも、ユーザー無視が原因の失敗事例はよくある。現状を訴え、メーカーに見解を問い、方向性を正す。この出来事以降、我々の要望は受け入れられるようになった。

■ 時代の流れの中、新しい技術等に対応するため、印画紙研究会は第70回大会会場を東京に移動、その後ホテル椿山荘東京で開催する。国際的な活動が増えたこともあり、名称も2005年に「 PORTRAIT ACADEMY OF JAPAN (PAJ) 」の英語名にあらためた。

08年2月には、この伝統と権威のあるPAJの会長に指名され、50周年第100回記念大会も主催した。記念写真コンテストでは、純粋に作品内容を評価してもらうため各会員の力作を匿名展示、かつて師事した立木義浩氏に審査をお願いした。立木氏は「これがトップだ」と1枚を選択。なんとそれが私の作品。驚くとともに、出き過ぎのドラマに、助手時代のイメージがダブり感動を覚えた。

会長は16年9月大会までの4期8年間、無事任期を勤め終えた。特に総務担当木村裕次副会長のサポートには感謝。
(福家スタジオ社長)

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